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横浜地方裁判所 昭和62年(ワ)2664号 判決 1989年9月25日

原告 中田廣

右訴訟代理人弁護士 飯塚正寿

同 鈴木元子

同 手塚誠

被告 豊田徳本

右訴訟代理人弁護士 伊藤秀一

主文

一  被告は原告に対し、別紙物件目録記載の建物を明渡し、かつ、昭和六二年六月一日から右明渡し済みに至るまで、一か月金三万五〇〇〇円の割合による金員を支払え。

二  被告は原告に対し、金一〇六万二〇〇〇円及びこれに対する昭和六二年六月一日から支払い済みに至るまで、年一割の割合による金員を支払え。

三  原告のその余の請求を棄却する。

四  訴訟費用は被告の負担とする。

五  この判決は、原告勝訴の部分に限り、仮に執行することができる。

事実

第一申立

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し、別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)を明渡し、かつ、昭和六二年六月一日から右明渡し済みに至るまで、一か月金四万円の割合による金員を支払え。

2  主文二項と同旨

3  主文四項と同旨

4  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二主張

一  請求原因

1  原告は、被告に対し、昭和三五年一二月一九日、原告が訴外宗教法人宝塔寺から賃借している土地上に所有する本件建物を、次の約定で貸し渡した(以下「本件賃貸借契約」という。)。

(一) 賃料 月額一〇〇〇円、毎月末日に翌月分前払

(二) 期間 定めなし

2  その後、前項の賃料は、物価及び原告が宝塔寺に支払う地代の上昇等により著しく低額となり、(昭和五六年四月分の地代のうち本件建物の敷地相当分は五九八二円であり、本件建物の賃料は右地代に及ばない。)不相当なものとなったので、原告は被告に対し、昭和五六年四月二三日、賃料を同年五月一日より月額二万円に増額する旨の意思表示をし、右意思表示は翌二四日被告に到達した。

3  被告が八年余の長期に亙り、以下のとおり、適正賃料額の一割にも満たない著しく低額の賃料の供託を継続したことにより、原告と被告の信頼関係は破壊された。

(一) 原告は、被告が賃借中の本件建物を訴外秋山銀次郎から譲り受け、被告に対する賃貸人の地位を承継したものであり、本件賃貸借契約の当初から賃料の増額を求めていたが、被告はこれを拒絶し、昭和五四年四月から賃料として月額二〇〇〇円を供託している。

(二) 被告が供託した賃料月額二〇〇〇円は著しく低額である。即ち、本件建物の敷地の地代にも及ばず、鑑定(鑑定人海老塚卓、同石川幸男、同迫俊昭の鑑定によると、昭和五六年五月一日現在の本件建物の賃料月額は、それぞれ、二万四七〇〇円、二万八〇〇〇円、三万四〇〇〇円である。)に基づく適正賃料にも遠く及ばない。仮に、右同日当時、本件建物の賃料が地代家賃統制令の適用を受けるとしても、その統制家賃額は右石川幸男の鑑定によれば月額一万二一一六円であり、供託額はその六分の一以下である。

(三) 被告は、昭和五六年四月の賃料増額請求に対しても何らの回答を示さず、著しく低額の供託を継続している。

4  原告は被告に対し、昭和六二年五月二二日、同五七年六月分ないし同六二年四月分の賃料合計一一八万円のうち一〇六万二〇〇〇円の支払を催告し、同時に、右催告の到達後五日が経過した時は本件建物の賃貸借契約を解除する旨の意思表示をし、この催告及び意思表示は翌二三日被告に到達した。

5  昭和六二年五月二九日が経過した。

6  昭和六二年六月一日以降の本件建物の賃料相当額は月額四万円である。

よって、原告は被告に対し、本件建物の賃貸借契約の終了による現状回復請求権に基づき本件建物の明渡を求めるとともに、昭和五七年六月分ないし同六二年四月分の賃料合計一一八万円のうち一〇六万二〇〇〇円及びこれに対する支払期日の後である同六二年六月一日から支払い済みに至るまで借家法所定の年一割の割合による利息の支払並びに右同日から本件建物の明渡し済みに至るまで月額四万円の割合による賃料相当損害金の支払を、それぞれ求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1は認める。

2  同2のうち、原告主張の意思表示が到達したことは認めるが、その余は不知。本件建物の近隣には、本件建物の賃料額と同程度の賃料の借家があった。

3  同3冒頭は争う。

同(一)は認める。

同(二)について、原告主張の鑑定の結果については認めるが、本件建物の賃料が右鑑定の結果に及ばないとする点は不知。その余は否認する。

同(三)について、供託額が著しく低額である点を否認し、その余は認める。

4  同4は認める。

5  同6は否認する。

三  抗弁

1  賃料増額請求の不相当性

(一) 原告の賃料増額請求時において、本件建物は地代家賃統制令(昭和二一年九月二八日勅令第四四三号、同六一年一二月三一日限り失効、以下「統制令」という。)二三条二項但書にいう併用住宅であるから、賃料は同令所定の統制家賃額が相当である。即ち、本件建物は、昭和一〇年に建築された住宅であるが、同二七年六月その一部を診療所に改造し、診療所として使用する事業用部分と居住用部分とが結合する建物となった。その事業用部分の面積は二三平方メートル以下、居住用部分の面積は九九平方メートル以下であり、被告が事業主として事業用部分である診療所を使用し、かつ、居住用部分に居住してきた。

(二) 本件賃貸借契約においては、造作の修理等は被告の費用で行う旨の特約があり、被告は、本件建物及びその造作等の修理・改良等すべて自己の費用で行ってきた。

2  弁済の提供(供託)

原告主張の契約当初からの賃料増額請求に対し、被告は統制令の適用があることを理由にこれを拒絶してきた。そして、原告請求の賃料額に照らし、被告が相当と認める賃料額を提供しても受領を拒絶されることが明らかであったので、被告は、昭和三五年一二月から月額一〇〇〇円の供託を始め、その後四回に亙り自発的に供託額を増額した後、同五四年四月から月額二〇〇〇円を、同六三年一月から月額一万円を、更に同年七月から月額二万円を弁済のため供託している。

なお、被告は、昭和四五年一二月二九日及び同四六年二月二九日には、各一〇〇〇円を直接原告に支払った。

3  信頼関係の破壊に至らない特段の事由

(一) 被告は、原告と本件賃貸借契約を締結した当初から、本件建物は統制令にいう併用住宅であり賃料については同令の適用があるものと信じていた。

(二) 原告は、昭和五六年四月に賃料増額の請求をした後、被告と直接交渉する態度を示さず、本訴提起に至るまで賃料増額請求等の訴えを提起することもしなかった。原告は、請求額と供託額との差額が累積し多額となった時点で、突如差額の全額を請求し、その支払のないことを理由に契約を解除した。

右の事情及び前記2の供託の事実に照らすと、原告が本件賃貸借契約の解除権を行使することは、信義則に反し、権利の乱用に当たるから許されない。

四  抗弁に対する認否

1  抗弁1(一)のうち、本件建物の賃料に統制令の適用があること及び被告が本件建物の一部を居住用として使用してきたことは否認する。

同(二)のうち、本件賃貸借契約において修繕義務を被告が負担する旨の特約があることは否認し、その余は不知。但し、本件建物の一部について修繕がされていることは認める。

2  同2について、原告の増額請求に対し被告が統制令の適用があることを理由に拒絶したこと及びその主張の供託がされていることは認める。

3  同3(一)は不知。同(二)は否認する。その余は争う。

第三証拠《省略》

理由

一  本件賃貸借契約と賃料増額の意思表示について

請求原因1の事実及び同2のうち原告主張の賃料増額の意思表示が被告に到達したことは、いずれも当事者間に争いがない。

二  賃料増額事由の有無について

1  本件建物の敷地は、原告が宗教法人宝塔寺から賃借している土地の一部であることは、当事者間に争いがなく、《証拠省略》によると、本件建物の敷地は、原告が宝塔寺から賃借している土地一一一・七三平方メートルのうちの二分の一に相当する五五・八六平方メートルであること、原告の右借地の地代は、昭和三五年一二月当時月額九九〇円であったが、同五六年四月当時にはその一一倍強に当たる月額一万一一二〇円に増額されていること、従って、本件建物の敷地相当分の地代は、契約当時の月額四九五円から同五六年四月当時には一一倍強の月額五五六〇円に上昇しており、本件建物の賃料は、右地代にも及ばないものとなったことが認められ(る。)《証拠省略》

被告は、本件建物の近隣において、本件建物の賃料と同程度の家賃の借家が存在すると主張するが、この点に関する《証拠省略》はたやすく信用することができず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

2  本件建物の写真であることについて《証拠省略》によれば、本件建物の存在する土地は、国道と県道との交差点に近い県道に面しており、近隣商業地域に属すること、昭和三五年から同五六年の間に、横浜市における消費者物価指数は四・八倍に、家賃指数は一〇・八倍に、六大都市の商業地域における地価指数は二三・六倍に、それぞれ上昇していることが認められる。

3  以上1、2の事実によると、昭和三五年一二月一九日に約定された本件建物の賃料は、その後の本件建物の敷地の地代の上昇、物価の騰貴、地価の高騰等により、昭和五六年四月当時には著しく低額となり不相当となったものと認められるので、右増額請求時において賃料を増額すべき事由が存在したものということができる。

三  賃料増額の不相当性(抗弁1)について

1  地代家賃統制令の適用の有無

(一)  《証拠省略》によると、被告は、本件建物を居住用として賃借していたが、昭和二七年に本件建物の一部を診療所に改造し、住居兼診療所として使用していたところ、同三〇年五月、本件建物に程近い肩書住所地に居住用の建物を購入して転居し、以後被告及びその家族は右建物に居住していること、従って、被告及びその家族は、昭和三五年一二月一九日以降本件建物に居住していたことはなく、本件建物は専ら診療所として使用され、同四〇年頃までは管理のため被告の使用人が居住していたことがあるが、その後は被告自身が、時折、本件建物に寝泊まりしているに過ぎないことが認められ(る。)《証拠判断省略》

(二)  ところで、統制令二三条二項但書、三項にいう「併用住宅」とは、事業用部分と居住用部分とを有する住宅で、当該住宅の借主が当該住宅に居住する者であり、かつ、当該住宅の借主が当該事業用部分で行う事業の事業主である場合をいうものと定められているところ(同令施行規則一一条)、右(一)の事実によると、被告が昭和三〇年以降本件建物に居住したことは認められないから(被告の使用人が居住している場合はもとより、被告が午睡したり、時折宿直として寝泊まりしていたとしても、被告の生活の本拠が他にある以上被告が本件建物に居住しているとはいえないことは明らかである。)、本件建物を統制令二三条二項但書にいう併用住宅ということはできない。

従って、本件建物の賃料が統制令の適用を受けるとする被告の主張は理由がない。

2  被告の修繕義務の履行

本件建物の一部について修繕がされていることは当事者間に争いがなく、《証拠省略》によると、原告の前主秋山銀次郎と被告との間の本件建物の賃貸借契約において、造作の修理は被告が負担する旨の約定があり、右約定は原告に承継されたこと、そして、被告は、右約定に従い本件建物について、水洗便所への改良工事、屋根の塗装、雨漏りの修理等を被告の負担で行っていたことが認められ、この認定に反する証拠はない。

しかしながら、後記各鑑定による適正賃料額と原告の請求する賃料額とを対比して考慮すれば、右に認定される程度の補修・改良工事の負担をもって、原告の賃料増額請求が不相当であるということはできない。

よって、抗弁1はいずれも理由がない。

四  相当賃料額について

前記迫鑑定、石川鑑定、海老塚鑑定によると、昭和五六年五月一日現在における本件建物の適正賃料額が、それぞれ、月額三万四〇〇〇円、二万八〇〇〇円、二万四七〇〇円とされていることは当事者間に争いがない。

そうとすれば、右鑑定のいずれを採用するかはともかく、原告の請求する月額二万円の賃料が適正、相当であることは明らかであり、これを修正すべき特段の事情は認められないから、本件建物の賃料は、昭和五六年五月一日以降月額二万円に増額されたものというべきである。

五  賃貸借契約解除理由の有無について

1  請求原因4(未払賃料の支払催告及び解除の意思表示)については当事者間に争いがなく、同5(催告期間の経過)は公知の事実である。

2  請求原因3(一)及び抗弁2のうち供託の経過については、いずれも当事者間に争いがない。

3  そこで、右供託の相当性について検討する。

(一)  前記二、四において見たとおり、昭和五六年四月当時の本件建物の敷地の地代は月額五五六〇円であり、また、前記迫、石川、海老塚各鑑定による同年五月一日現在の適正賃料は、それぞれ、月額三万四〇〇〇円、二万八〇〇〇円、二万四七〇〇円であるから、被告が供託した賃料月額二〇〇〇円は、敷地の地代にも及ばず、右適正賃料はもとより、原告が増額を請求した賃料月額二万円の一〇分の一という著しく低額なものであることが認められる。

(二)  借家法七条二項本文は、賃料増額について当事者間に協議が調わない場合には、借家人は増額を正当とする裁判が確定するに至るまで「相当ト認ムル借賃」を支払えば足りる旨規定している。そして、右の「相当ト認ムル借賃」とは、同項但書の趣旨に照らし、原則として借家人が主観的に相当と認める額でよく、必ずしも客観的な適正賃料額に一致する必要はないと解されている。

従って、原則としては、借家人が自ら相当と認める賃料額の供託を継続している以上、借家人に賃料不払の債務不履行はないということができるが、たとえ借家人が主観的に相当と認める額であっても、従前の賃料より低額であったり、適正賃料額に比して著しく低額である場合には、その供託を相当額の供託ということはできず、従って、債務の本旨に従った履行と評価することはできないものといわなければならない。

これを本件について見るに、被告のした供託は、適正賃料との差が著しく大きく極めて低額であるから、相当性がないものといわざるを得ず、これを債務の本旨に従った履行ということはできない。

4  原告は、被告が賃借中の本件建物を前主秋山銀次郎から譲り受け、被告に対する賃貸人の地位を承継したこと、原告が本件賃貸借契約締結の当初より賃料の増額を求めていたこと、これに対し被告は統制令の適用があることを理由にこれを拒絶し続けていたこと、被告が契約当初の昭和三五年一二月から月額一〇〇〇円の供託を始め、その後四回供託額を増額した後、同五四年四月から同六二年一二月まで月額二〇〇〇円を供託していること及び原告の同五六年四月の増額請求に対して被告が何らの回答をせず供託を続けていることは、いずれも当事者間に争いがなく、《証拠省略》によると、被告は、本件賃貸借契約の締結当時から本件建物には統制令の適用があると信じていたこと、他方、原告は昭和五六年四月の増額請求の後同六二年五月の催告までの六年余、被告に対し賃料について何らの直接交渉をせず、訴えの提起等もしなかったことが認められ、この認定に反する証拠はなく、なお、被告が、原告から受領を拒絶されることは明らかであるとして、弁済の提供をすることなく供託を継続したことは、被告の自陳するところである。

以上の事実を総合考慮すると、原告の増額請求を無視し、統制令の適用があると信じていたとしながら、同令による本件建物の具体的賃料額について検討することもなく(石井鑑定によれば、仮に統制令の適用があるとしても、昭和五六年五月一日当時の本件建物の賃料は月額一万二一一六円である。)、前記のとおり長期間に亙り著しく低額の供託を継続した被告の態度は明らかに常軌を逸するものであり、賃貸借関係において要求される信頼関係を破壊するものというほかはない。

被告は、昭和五六年四月に賃料増額の請求をしながら、六年余り被告との交渉を放置した後契約を解除した原告の態度を非難するが、上記認定事実によると、右は、主として、被告の側に当初から協議に応ずる態度がなかったことに基因するものと認められるので、原告が増額請求の後六年余を経て契約を解除したことをもって、信義則違反ないし権利の乱用ということはできない。

よって、本件賃貸借契約は前記催告の到達後相当期間を経過した昭和六二年五月二九日解除により終了したものというべきである。

六  賃料相当損害金について

昭和六二年六月一日現在の賃料相当額については、前記各鑑定によれば、それぞれ、月額四万二〇〇〇円、三万五〇〇〇円、三万円とされているが、本件においては、上記認定の賃貸借契約の経緯、被告の修繕義務の負担とその履行の程度等に鑑み、スライド方式を基準に差額配分方式を加味して算定した石川鑑定に従うこととする。

石川鑑定によると、昭和六二年六月一日現在の賃料相当額は、月額三万五〇〇〇円となる。

七  結論

以上の次第で、原告の請求は、被告に対し、本件建物の明渡、未払賃料一〇六万二〇〇〇円及びこれに対する昭和六二年六月一日から支払い済みに至るまで借家法所定の年一割の割合による利息の支払並びに右同日から本件建物の明渡し済みにいたるまで月額三万五〇〇〇円の割合による賃料相当損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条但書を、仮執行宣言につき同法一九六条を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 蘒原孟)

<以下省略>

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